昭和45年5月28日 夜の御理解
今日は、竹葉会でしたから、ほとんど皆さん始まって直ぐから、私に是非入ってくれち言うので、私も初めから入らせて頂いたんですけれども、今朝のご理解の高橋正雄先生の言うておられることを中心に色々信心の稽古をさせて頂いたんです、確かなことと言う事。一つ、自分が助かっておると思えぬ事。一つ、自分が助かりたい者である事。一つ、自分一人で助かる事の出来る者でない事。これは本当にやはり、本気で信心を思うてみなければ、このことにすら気付かないですね、お互いが。
本気で思うてみるとですね、あの自分が助かって、自分が助かっておるとは思えぬと言う事。自分が助かってはいないと言うことですね。ん、と言う事すらが分からない。お金があって物があって、健康であって、家庭が円満であっても、どこに不足がないごとあるけれどもですよ、ね、やはり心に本当の悩みがないかって言う、あるのですから。
本当に助かるということは、そのように言うならば、難しい事だということ。けれどもやはり助かりたい者であるということ、ね、信心させて頂いたら、いわゆるより助かりたい、助かっておるようにあるけれども、より助かりたいという願い、そこで結論として出て来るのはなら助かりたいと言うその願いがですね、自分一人ではどうにも出来ないと言う事、に気が付くと。そこで、まぁ今日あの、朝の御理解のようなところになって来るわけです。
いわゆるそのあいよかけよ、と言ったような事にならなければ本当の助かりっていう事になってこない、と言う事なんですけれども、それでまぁ色々話、教義しまして、話ました中に、なら皆さんどうでしょうか、私はどんなに思うですか、私が、私はどの程度、どういう風に助かっておると思うですかっち言ったら皆が、親先生は助かっちゃる、ち言うわけですよね。
もう親先生はもう超が付くて、言うならばもう、親先生はいやたす、自分が助かっていると思えぬ事と、言うようなことはないです。親先生は助かっちゃる、と言うわけなんですね。けれどもその、成る程誰よりも助かってるかもしれません。けれども私もやはり助かっているとは思えぬ、自分であると言う事。
だから問題はその、何と申しますか、んー、その次元の違った助かりと、ね。だから、一生がやはり自分が助かりたい者であると言う事の願いと言うものは、捨てる事は出来ない。何時も自分が助かりたいという、その願いを持たせて頂くほどしに自分は助かっていない自分というものを見極める。
えー、ある人のお届けを聞かせて頂いて、そのくらいな事はあんた難儀な事じゃないじゃないの、それはお礼ば申し上げにゃん事じゃないか、と言うようにですね、私から見ればそういうようなことであっても、この人は苦しいことですから、助かっていない。だからその程度のことであったら、私自身は助かっておる事になるけど、ならもっともっと言わば自分というものを見極めさせてもらう時に、助かって、助かっているとは思えぬ自分というものをそこに発見する。
そこで私は、やはり何時もですね、こういう例えばまぁ、高橋正雄先生は教団の中でも、大教学者であったし、大変な深刻派でありましたからですね、けどもやはりこういう事を、時折は思うて思うてみなければいけないと思うですね、目先のことをおかげを受けるといったようなことに修成する事でなくて、本当にあの自分が助かっていると思えぬ、助かっているとは思えぬという自分、やはりあの追求してみなければいけないです。そして、やはり自分が助かり者である、助かりたい者であるというようなですね、願いをその内容に持たせて頂くところからです、その高橋正雄先生がここに仰っておられるように、一人ではどうにでも出来ない事だというような、私は信心が分って来る時に教祖金光大神の信心、いわゆる神様が氏子あっての神と仰せられ、私共が神様あっての私共でございますと言えるような、その何とも言えんあいよかけよの本当のおかげというかね、そういうその生き方が出来て来るという風に思うですね。
もう私はおかげ頂いてある、言う事なかという人はそりゃ私はあまりもの言い方であると。それは、んならその次元においては助かっておるかもしれんけども、もっと向上しようという願いがない証拠だと言うことにまでなって来るわけですよね。どうぞ。
梶原 佳行